最後の涙雨

 しとしとと雨が降っていた。
 そのきれいな雨に友達とやっていたかくれんぼも忘れ、クレイは森の中を彷徨った。
 軽く靄がかかる木々の間を、知らず知らず奥へと迷い込む。
 その湿気を帯びる澄んだ空気が、少年から怖さを取り除いていた。

「あ・・・・・・」
 静かな滝の音と共に開けた森の先、そこで湖の中にいる女性を見た。
 涙を流す美しき女性に、少年はしばし見入ってしまい、その場に立ち竦む。
「あの、何か悲しい事があったんですか? 」
 幼くても男、少年は女性に近づいた。
「涙を流している。それが私の役目、この大地に水の恵みを」
 彼女は涙を止めることなくささやく。
 その表情が変わる事はない。
「役目? どうして泣く事が・・・・・・」
 更に女性に近づこうとして、クレイは彼女が水に浮いている事に気づく。湖の淵は浅いが、女性のいる辺りは深そうに見える。
 どうせ雨で濡れているんだからと、湖に足を入れようとするが、その女性に止められた。
「わざわざ水に入り、それ以上服を濡らす事はない。雨はもうすぐ止む」
「でも、お姉さん。やっぱり悲しくないのに泣くのって変だよ? 」
 決意を挫かれ、ちょっと拗ねながら疑問を挟む。
「私は水の精ランダ。私の流す涙はそのまま雨となる。
 私が涙を流さねば、大地は乾いたままとなり、水は枯れてゆく。
 私の涙は必要な涙なのだ」
 淡々と自らのことを話す精に、クレイは悲しみを覚える。
「でも、涙を流す事が必要ってなんか悲しいよね」
「そんなこと・・・・・・考えた事もない」
 自らの至上の役目を否定されてか、言葉に少し棘が混じるが、相変わらず表情に変わりはない。
 ランダは涙を止め、目を開けた。小雨だった雨が次第に止んでいく。
 靄の中に見えるのは、自分の顔を見つめる、まだ幼い少年だった。
「きれい・・・・・・」
 その顔を見てクレイは思わずつぶやく。幻想的な雰囲気と透明な海のような瞳。
 少年が今まで見たこともない美しい女性の顔。
 そのつぶやきは何の邪気もない、心からのため息だった。
「きれい? 私の事か? 」
 その少年の心が伝わったのか、ランダにかすかな動揺の色が見えた。
 それは少年が始めて見る表情の変化だった。
 それによって、水の精が身近に感じられたのか、クレイは勢い込む。
「うん、すごくきれい・・・・・・」
 吐き出すような賛辞が少年の幼い口から漏れる。
 ランダの中で、薄いと自覚している自分の感情がわずかに動くのを感じた。
 それに触れたくてクレイへと近づく。
「・・・・・・レイ、クレイ! 」
 クレイに触れる瞬間、少年を呼ぶ声が響いてきた。
 何故かその手を止めてしまう自分に驚く。
「ホミン、ここだよーー! 」
 クレイはそんなランダに気づくことなく、幼馴染を呼ぶ。
「クレ・・・・・・! 」
 ホミンは森を探し回ってやっと見つけたクレイの側の、美しい女性に呆然となる。
「だれ・・・・・・? すごく、きれい」
 クレイと同じく感嘆の声を出す。
 何故かその言葉にランダは満足を覚える。
「友達か? まだまだ幼いが、いずれ美しくなろう、さあ」
 ランダはその子に手を伸ばすと同時に、躊躇ってしまったクレイにも手を伸ばし、優しく髪を撫でる。
 その触れる手、しっとりと湿気の含んだみずみずしい感触に、子供達はうっとりとした。


 遅くなってしまったからと、帰る二人を見送った。
 しかし帰る間際、クレイが振り返って「また来てもいい? 」と聞く。
 人に会ったのは初めてではないのに、心がざわめいた。


 思わぬ出会いの余韻に浸ろうかと言う時、頭上より声がかかった。
「珍しいなランダ。お前が感情を表すなんて」
 空より降りてきたのは、若いが年を感じさせる素足の男性だった。
「ミューザ、私が・・・・・・感情を? 」
 水の精は涙を流す役目がある故に、感情が薄い。感情のままに涙を流せば世界は水で覆われてしまう。
 そして空より降りてきた男、土の精ミューザ。
 彼は必要でない限り地面に降り立つ事はない。水の精が涙によって雨の恵みを与える代わりに、土に体が触れることによって大地に肥沃を与えるのだ。
 その安易な行為で恵みをもたらしてしまう故に、土の精は固く生真面目な性格が備わっていた。
「ああ。お前、自分が笑っていることに気づいているか? 」
「笑って・・・・・・」
 その考える様には何の感情も浮かんでこない。
 いつもと変わらぬ様子に土の精はため息をついた。



 夢のような出会いだった。
 あれほど美しい人と話す事ができるのが幸せだった。
 クレイは雨が降るたびあの湖へ向かう。
 時々笑いかけてくれるようになった彼女が嬉しかった。
 三人だけの秘密の出会い。
 しかし、やがてホミンは湖へ行くのを止める。
 クレイはその理由に気を止める事無く、湖では二人だけの時間が流れた。


 やがて少年は大人へと成長する。
 水の精はその姿を変えることなく、彼を迎えた。




「あら、雨が降ってきた! 」
 もうすぐ夜になろうかという時、友達の声にホミンは空を見上げた。
 あの人が泣いているのね。
「どうしたの? 濡れるよ、ほらこっち」
 ミーネに腕を引っ張られ、木陰で雨宿りをする。
「まーたクレイはどっか行ってるんだろうなー、時間があれば雨の時はいっつもどっか行くんだから」
「うん、そうだね」
 さすがに働き出した今は昔ほどではないが、きっとクレイはランダのところへ行っている。
 慰めを必要としない水の精の元に。
 何年経っても変わらないあの美しさ、成長していく自分との差に、ホミンはランダの所へ行くのを止めた。
 本当は二人っきりにしたくない気持ちもあったが、いたたまれなさが勝ってしまった。
 自分は完璧に負けたのだ。
「ちょっと、どうしたのよ暗い顔してさ」
 ミーネが顔を覗き込んで来る。
「そう? そんな事ないよ」
 にっこりと笑ってみせる。笑顔には自信があった。
 感情豊かになる事、それくらいしか対抗手段がなかったから。
「雨止みそうにないね、私の家の方が近いからそこまで走ろうか? 」
 二人は子供っぽい歓声をあげながらミーナの家へと走った。


「はい、タオル」
 ひっ詰めて上げていた髪を解き、タオルを受け取る。
「私さ、ずっと思ってたんだけど、髪下ろしたほうが可愛いよ。これから下ろしたら? 」
「えー、あんまり下ろすの好きじゃないからいいよ」
 本当は下ろしたかった。髪を伸ばし始めたのはあの人のようになりたかったから。
 結局似ても似つかない自分が惨めで、下ろす事はしなくなったが、短くしないところに未練がある。
 髪を拭く前に、髪を止めていたバレッタを丁寧に拭った。
「それ、クレイに貰ったって言ってたやつ? 」
 無意識の行動だったので、見せ付けるような行動に反省する。
「え、うん。せっかく貰ったから・・・・・・」
 貰ったから、の後の言葉が続かない。
 そう、クレイはいつも私に気を使ってくれる。
 誕生日にはいつも何かくれるし、村の祭りではいつも私を誘ってくれる。
 だから分からなくなる。
 そこかしこにある未練を捨てきれない。
 雨は止んでいた。


 闇が包む道を家へと向かう。
「ホミン? 」
 振り向くまでもない、クレイの声だった。
「今日も、行ってきたの? 」
 知らず知らず声に棘が混じる。
「ランダの所? そうだよ」
 何の悪気もない声、それ意外を求めるのは自分のわがままだと分かっているけどつい表情が暗くなる。
 何を勘違いしてか。
「ひょっとして冷えた? ちょっと待ってて」
 違うと言う前に、露天へ走っていく。戻ってきたその手には温かいスープがあった。
「はい」
 そう、この優しさがあるからクレイを諦めきれないんだ。
「ありがとう」
 心からの笑顔を浮かべた。すぐさまスープに目を落としたので、ホミンはクレイの照れた顔を見逃した。
「今帰りだろ? 暗いし送ってくよ」
 クレイはそっとホミンの背に手を回した。


 その背中に感じた手に押され、ホミンの中でもう一度勇気が芽生えた。




 自分の役目に対し、使命感はあるが、その他の感情を抱いたことはなかった。
 今はこの涙を流す度ある期待が生まれる。かといって、常に雨を降らせるわけにはいかない、世界のバランスがある。
 だから雨を降らせるたびに来て欲しかった。大人になって役目があっても。

 今日は来るだろうか?
 前回も、その前もクレイは姿を現さなかった。
 湖に映る無表情の自分の顔を見る。
 クレイは私の表情が変わるようになったと言う。
 私が笑うとクレイも喜ぶ。
 もっと笑えるようになるのはどうしたらいいんだろうか?
 クレイはホミンのように笑えたらといつも言う、どうしたらあの子を超えられるのだろうか?



「ランダ」
 ああ、来た。
「クレイ、待っていた」
「ごめん、最近は仕事が忙しくて」
「それは分かっている、でも待っていた」
 率直な言葉にクレイは苦笑した。表情の変わりに語彙が豊かになってきたような気がする。
 ランダを変えたのが自分だと思うと、彼の中に何ともいえない満足感が満ちてきた。
「そっか、なるべく時間がある時は来るよ」
 その言葉が嬉しかった、嬉しかったのに満面の笑みを浮かべられない。
 何故自分は水に生まれたのか、表情豊かな風に生まれたかった。
 自分に笑いかけるクレイの表情が愛しくて、躊躇うことなく手を伸ばした。



 自分は醜い人間だと思った。
 だって、人と水の精でしょう? いつかはその関係が壊れる日が来る。
 そんな事を考える自分が嫌だった。
 その日を待って、何も行動せず、負けたと逃げている自分は卑怯だ。
 だから、あの手のぬくもりを支えにして、もう一度向き合ってみたい。
 あの人の前に立って、逃げ出さない自分でありたい。

 逃げたくない逃げたくない逃げたくない。

 森の中を、私はまとめ上げている髪を解きながら駆け抜けた。

 大丈夫、大丈夫大丈夫。
 そして、私は何年振りかにランダとクレイを見た。



「ホ・・・・・・ミン? 」
 最初に気づいたのはランダだった。
 ホミンはすぐさま後悔した。何故大丈夫と思ったんだろう? 寄り添う二人を見なかったら、希望だけは持っていられたのに。
「え? ホミン。珍しいな、ここに来るなんて」
 クレイは相変わらずの口調で言う。きっとクレイにとっては何でもない事なんだ。
 悔しかった、自分が惨めで惨めで、涙が出てきた。
 きっとくしゃくしゃにゆがんでいるはずだ。
 よりによって、あんなに美しい涙を流す人の前で泣くなんて。
「ホミン、どうしたんだ? 」
 クレイがあわてて声をかける。
「・・・・・・って」
「え? 」
「私だって側にいたのに。ずっとずっとクレイの側にいたのに!! 」
 なんて醜いことを言ったんだろう。
 ホミンはいたたまれなくなって、今来た道を駆け出した。
「ホミン、ちょっと待っ・・・・・・」
 クレイは激しく動揺した。
 ランダは始めて見るクレイの様子に驚いた。それは自分の前でいつも微笑みかけてくれる彼ではなかった。
「クレイ・・・・・・? 」
 泣かせてしまった。自分のせいだ。ランダの声すら耳に入らなかった。
 クレイは気づいていた。
 湖にいない、普通に生活する時間、それはホミンとの時間だった。
 いつもまとめている髪を下ろしてここに来たホミン。
 クレイは駆け出した。
「クレイ! 」
 走り去るクレイを呆然とランダは見送った。
 分からない、いや、自分に声をかけてきてくれた時も、私が涙を流していた時だった。
 だからホミンを追いかけたのだろうか?

「ランダ、それは違うよ。
 ・・・・・・おいで」
 気づくと側にミューザがいた。
「どこへ」
「いいから」
 彼に連れられ、湖を離れる。初めてのことだった。
 ミューザが目指したのは森の途中で抱き合うクレイとホミン。
 幸せそうに涙を流すホミンの何と美しいことか。
 自分の乾いた涙とは大違いだ。
 ランダの瞳に自然と涙が浮かぶ。
「ランダ、それが泣くという事だよ」
 両手で顔を覆って泣くランダを軽く抱き寄せた。
 その涙に誘われて雨が落ちてくる。
「あの少年がお前に教えてくれたんだ。
 ・・・・・・本当は俺がその役目を負いたかったんだがな」
 ハッとランダは顔を上げる。
 今のランダにはその意味が理解できた。
「さあ、それ以上の涙を流すならこの地を離れないと」
 そうしなければ、感情で流す涙で雨が溢れてしまう。
 ミューザは自分の指を軽く噛み切り、一滴、地面に血を落とした。
 その瞬間大地に癒しの波が走る。
 ただ土に触れるだけで大地に恵みをもたらす土の精、大地に染み込む血を落とすことにより、永きに渡る恵みがもたらされる。
 水の精が去る事による害を、少しでも埋めることが出来るだろう。
「ランダ、俺と行こう」
 ミューザがそっとランダに手を伸ばす。
「・・・・・・はい」
 その手をしばらく見つめ、ランダはゆっくりと微笑んでその手を取った。


 今、ランダの瞳に流れる涙、それがこの地に流れる



 最後の涙雨


-完-

元々16pでマンガにしてました。「涙雨」と言う言葉を使いたくて書いた作品です。
友達にはミューザがいいとこ取りだと言われました。
実はこの名前、幻想水滸伝3の炎の英雄の名前だったりします(笑)
描いていた当時は火・風・水・土、それぞれの性格と特性を考えていたのですが、火はすっかり忘れてしまいました。なので全く出てきていません。
これは何と言うか理想と現実の差を書きたかったんです(←未熟なくせにテーマだけは一丁前)

それはクレイの方のテーマですが、ランダの方は現実を知らないと言うこと、知らないからこそ自分の望みを求めて周りが見えないと言うのを書きたかったんです。

私のテーマはひねくれてますねぇ(笑)
(2009.1.1)