今日も俺は丘を駆ける、俺を待つ人がいる所へ。
見晴らしはよく、空気も良い。しかし全体的にガタがきて、とても暮らしやすいとはいえない古い家。
それでもそこに住む母娘には精一杯の家だった。
「ディン! 」
その声は木の陰から聞こえた。
「アキ、外に出てたのか」
「うん、今日はあったかいから」
そう言って笑う、こけた頬。痩せた手足。いつから見ないようにしたのだろう。
「遅かったのね、忙しかった? 」
それでもふわりと笑う顔を大好きだと思う。
「今日は客が多かったからな、だからこんなものしか作れなかった」
そう言って俺は持ってきた包みを広げた。もうここで食べてしまおうと二人で笑いあう。
「でも、お客さんがいなかったら困るでしょ? 」
「確かにね」
そりゃあちょっと前まではそう思っていたさ、でも今は早くお前に会いたい、理由は怖くて言えないけど。
そのやつれていく顔を見るたびに、仕事を放り出したくなる。
でも、病気の娘を抱えたおばさんは、女手一つで家を借り、決して安くない薬を買い、そんな二人に俺がしてやれるのはアキの側にいることじゃなく、こうして差し入れを持っていったり、二人に気を使わせない事だと気づいているから。
痩せていく体を気遣うのは俺もおばさんもとうに止めている。背けてはいけない事実に目を逸らし、アキの好きなように生活させる。
それは暗に俺達がその先が見えていると理解しているようで、辛かった。
「さて・・・・・・と、どうぞ召し上がれ」
住み込みで料理屋で働いているので、料理にはそこそこ自信があるが、こうやって皿を並べるのにはセンスを感じない。上手そうに見える配膳を勉強しないと・・・・・・
アキはゆっくりと料理を食べていく。
何も食べれないんじゃないかと言う細い体。
昔はまだアキの親父もいて、町で暮らしていた頃の健康な体からは想像できないその姿。
見慣れているのはどっちなのだろうか? 弱っていく課程を見ていたから、昔の姿を思い返した時、その違いに愕然となり、振り返らないようにした。
その横で俺も一緒に食べた。アキ一人では食べきれないからだ。
もう5年も続いているこの生活。
不安を抱き続けた5年の生活。
病を止めるすべがないと絶望した5年間。
あとこの生活を続けられるのは何年なんだろう?
「さ、俺は仕事に戻るから」
いつもこれだけは心がけている明るい声。俺はそっとアキを抱き上げた。
「ごめんね、でもいつ歩けなくなるか分からないから、今のうちに外に出たかったの」
こんな弱気なセリフをいつから言うようになったのだろう?
昔はもっと強気じゃなかったか?
昔はもっと・・・・・・
抱き上げたときに触れる足の細さが、アキの言葉がそう遠くない未来を予測していた。
「俺が、抱いていくんじゃだめか? 」
結局歩けなくなるかもしれない、と言うことを否定する言葉は出てこなかった。
ある時、仕事帰りのおばさんと出会った。
始めて会ったのは10年ほど前。アキが親子3人で町へと引っ越して来た時だった。
可愛い子だと思った。友達になりたいと思い、恋人になりたいと思った。
お互いが大人になりかけた頃、親父さんの死とアキの病が重なった。
専業主婦だったおばさんは働きに出て、薬のために家を売り、町外れの小さな家を借りた。
最初は治るんだと思った。
おばさんも治ると信じてがむしゃらだった。
でも、すでに余命の宣告の期限から一年が過ぎようとしていた。
「ディン、あの子は22歳になってしまった」
病が治ると待ち続けて5年。
「あなたも24、もう待っていなくていいのよ」
それが一年前だったら怒鳴っていたかもしれない。
でも命の期限とされた時から一年。おばさんは今まで俺に何も言わなかった。
それは俺を必要としてくれていると分からせるのに、十分な時間だった。
強い人間になりたかった。
アキだけでなく、おばさんも支えられる男になりたい。
「それなら、俺をあなたの息子にして下さい」
涙を流すおばさんを静かに支え続けた。
その日はいつもより早くアキの家にやってきた。
「おばさん、これ今日の差し入れ」
仕事が休みだったおばさんに声をかける。
「いつもありがとう、アキならさっき起きたはずよ」
アキが臥せっている間は影を落としている顔が、今は少し明るい。
その様子は俺に自信を持たせた。
少なくとも暗い顔から救ってやれる人間になれたんじゃないかと。
迷うはずのない小さな家、俺はアキの部屋へと向かった。
寝込むのはいつもの事。もう珍しい事ではなくなった。
「おはよう」
「おはよう、でももうお昼ね」
「え・・・、あ、ああ」
「どうしたの? 」
「ううん、別に」
本当はいつもより声が弱々しいんじゃないか、と言いたかった。
今日、ここへ来た自信がなくなっていくような感じがした。
「なあ、アキ、俺・・・・・・」
「どうしたの? 」
だめだ、その弱い声に俺はさっき得た自信さえも消え失せていくのを感じた。
「・・・・・・今日ね、私が寝込んでいても、お母さん、いつもと違って暗い顔をしなかったの」
「そう・・・・・・か」
その理由を俺は言えなかった。
「ディン、ありがとう」
情けない自分が嫌で、俺はそのすべてを悟った笑顔を見逃してしまった。
言いたい事があった。
一言だけど大切な言葉。
まだまだ俺は未熟だから、小さな勇気しか持てなかった。
明日にはもっと大きな勇気を。
もっと大きな自信を。
改めて弱ったアキを見ても、ぐらつかない自信を、明日こそは持とう。
「アキ、入るわよ」
思ったより早く帰ったディンの様子が気になり、母が部屋へ入ってきた。
「どうしたんだろうねぇ、今日は仕事が忙しいのかしら」
違うよ、言えなかったんだよ、私を見て。
あの時、ディンは大切な事を言おうとしていた、私がほんの少し元気なら躊躇わずに言ってくれただろう言葉。
「どうしたの、アキ? 」
私はここ数年していなかった動きで母を振り返った。
「お母さん」
「何? 」
その勢いに母は目を見開く。
「私、私、まだ死にたくない! 」
私は母にしがみついた。
今まで病気に対し、愚痴一つ言わなかった娘の言葉に母は言葉に詰まる。
「まだ、まだ死にたくない、死にたくないのよ、私は! 」
「アキ! 」
人間として当たり前のことを叫ぶ娘を、母は必死で押さえつける。
「会わなかったら良かった。出会わなかったら・・・・・・」
病にかかった時も、命の宣告をされた時も、取り乱さなかった娘。
「そうしたら、死ぬのがこんなに怖いとは思わなかった」
「アキ、落ち着きなさい。今医者を呼んでくるから」
嫌な予感がした。ただ取り乱しているのではないような気がした。
しかし、娘は逆に母にしがみつく。
「なぜ? なぜよ! 何でこんなところに引っ越して来たの? こんな所に来なければ! 」
激しい言葉に慣れていない喉が悲鳴を上げる。
「そうしたら、そうしたら思わなかった!
こんなこと、病気が治るなんて! ディンにさえ会わなかったら・・・・・・」
それは昔の娘を見ているようだった。まだ元気で、ちょっと強気な幼い頃の。
「でも・・・・・・」
私は出会ってしまった。自分が病に侵されても、放すことができなかったあの人。
そして私は願ってしまった。決して叶わない夢を・・・・・・叶わないと分かっていて願ってしまった。
だから私は少しでも長く・・・・・・
「ゆ めを、夢を、見ていたくて・・・・・・」
あなたと一緒に過ごすという夢を。
「アキ・・・・・・」
「お母さん、わた しは・・・・・・」
夢はもう終わり。もう続かない。
ずっと前から気づいていた。
でも気づかない振りをしていた。
少しでも長く、この脆い夢を見続けたかった。
だから、でも、もう・・・・・・
俺は丘を駆けた。俺を待つ人がいる所へ。
昨日と違う勇気を持って。
戸を叩き、いつもどおり勝手に開ける。
台所に差し入れを置いて、まずはアキの部屋へ向かう。
静かだった。
人がいない静けさじゃない、人がいる静けさ。俺は嫌な予感がした。
アキの部屋を開けると、おばさんが座っていた。
仕事の日なのに・・・・・・
「おばさん? 」
「・・・・・・」
おばさんは俺を見ることなく部屋を出て行った。
二人だけになった。
「アキ、どうした? 目を、開けろよ」
頭では理解できた。でも心で否定した。
「うそ、だろ」
答えはないと分かって、俺は問いかけた。
とうとう来たんだ、その日が。
「どうしてだよ、どうしてだよぉぉぉぉ! 」
喉が張り裂けよとばかりに叫んだ。
昨日までは俺を見ていたのに。俺に話しかけていたのに。
もうお前は笑わない。俺に話しかけない。
もう何の感情も示さない。
「俺は、俺はまだ、何も言ってない・・・」
大切な事は何も。
すべてが崩れていく。
お前と共に。
あなたと一緒にいたかった。
あなたと一緒に時を過ごしたかった。
あなたにとっては少しの時間、でも私にとっては精一杯の時間。
あなたと過ごしたかった、それが私の夢。
あなたと時を過ごす
夢を見ていたくて
―完―
高校の文芸誌の作品です。まともな形にした最初の小説です。
その時の文章の状態はあまりにあまりな出来だったので、名前なども含め大幅に手直ししています。
題とアキの名前は某アニメから取っています。
題はともかく、アキは分からないでしょうね、分かる方がいらっしゃったら感激です。めちゃくちゃ好きなアニメだったので。
(2008.11.22)