第一章 第四話 4

 生活の跡をあちこちに残しながらも、セーダルの町には全く人の気配がしなかった。
 不意を突いた確信のあったトーメルク軍は慌てふためく。どこかで作戦が漏れていたのではないか? 実は今、エルンの軍に囲まれているのではないか?
 その疑問と斥候が戻ってこない現実がトーメルク軍の町中への進軍を鈍らせていた。

 斥候はエンリが切り捨てていた。
 そしてそのまま囮役の者たちは町の外へと馬を走らせる。斥候がこのタイミングで来るなら、囮役の自分達ですらトーメルク軍は気づかないかもしれない。
 囮という人数を必要とするため集められた血気盛んな若者達は肩透かしを食らい緊張が解けかけるが、特に一同に被害が出ることなく逃走出来た事劇に年長の面々は満足する。
 戦わずに済めばそれが一番である。
 マイン達は先行した長達と同じ足跡をたどる。逃亡先の道には地面が固く、蹄の跡を残しにくい場所があるのだ。そこまで行けばあとはそのまま逃走できる。


 元遊牧民であるセーダルの民は昔からの習慣で幼い頃より馬術を叩き込まれている。だが昔程の速さは望めない。いや十分に早いのだが、昔を知っている人間にとっては遅い。それはマインよりハンデルやカーダル達の方が感じていた。
 だがそれでもこのままなら視認されないまま振りきれる、誰もがそう思った時、視界の隅に何かが映った。
「エンリ」
 カーダルが長と行動しているため、今はこの囮のまとめ役となっているエンリにマインは声をかけた。見えた相手は町に向かったトーメルクとは軍の規模が違う、別働隊がいたのだ。
 敵も馬、もちろんこのままだと馬術と地理に長けたマイン達は間違いなく逃げ切れる。
 だが地面にはまだはっきりと先に逃走したセーダルの者達の足跡が残っているのだ。
 それならばわざと敵を引き付け、長たちをより遠くへ逃がす。元々偽装の一番の目的はその先の川なのだ。
 エンリは作戦の合図の変更の笛を吹かせた。
 ざっと囮役に目をやる。二十代の者も多い。セーダルがまともに戦闘に参加したのは十五年前。グリスやロウドの世代がギリギリ実戦を経験した年代だろう。
 だが人を斬った経験がないという人物もまた少なくはない。何もない土地を耕し、または酪農などの仕事が軌道に乗ってきたのは最近なのだ。
 それまでは近隣を行きかう者達の護衛の仕事が主な収入源だった。これでエスナはマイン達と知り合うことになるのだが。
 ただこれほど大規模な大人数での戦闘の経験者は少ない、だがやるしかない。
 昔は女性も多く剣を学んだが、近年はそうでもないのだ。自分で身を守れない者もいる。危険にさらすわけにはいかない。


 先頭を行くエンリはなぜかその足を鈍らしつ徐々に進路を変える。トーメルク軍は深夜に馬を走らせる一団が状況と方向からセーダルの民と見定め、一直線に追ってきた。
 比較的穏やかな地形が続く牧草地帯だが、多少は隆起もある。夜目には見えづらいその道を再び勢いを付けたマイン達は駆け上がる、アルセンも含め遅れる者など誰もいない。
 急に引き離されたことに気づいたトーメルクの軍はあわてて速度を速めるが、先ほどのエンリ達と同じく思ったより速さが出ない。
 そこはゆったりとした斜面だったのだ。
 追っていたセーダルの民は前方斜め上にいる。闇の中でいくつもの馬の瞳がトーメルクの軍を見ていた。
 思わずトーメルク軍の足並みが乱れる。

 そう、セーダルの民は反転していたのだ。


 それに気づいた時には、すでにセーダルの民は間近へと迫っていた。
 隊列を整えへ迎え撃つか、今の勢いのまま相手へ向かっていくか、そのトーメルク軍の一瞬の逡巡をエンリ達は見逃さなかった。

 マイン達、大部隊での実戦の経験のある者はすぐさま剣を抜いた。アルカ以下、小競り合いしか経験のない者も慌ててそれに続く。
 年長者達はそんな若者を囲むように紡錘形をとる。
 経験も大事だが、その経験を”させる”という事も重要なのだ。今は地の利と馬術の利を得たまたとない機会である。
 一人の脱落者も出さず、このまま突破したい。

 久々の実戦にアルカに震えが走った。戦闘の経験自体は他の若者に比べ少ないという事はない。
 それでもここ数年は腕が鈍らない程度の鍛錬しかしていない。どうしても情熱が向かないのだ。どれほどエスナにせっつかれても、どうしようもない。
 ただ今まで積み上げてきた腕が落ちるのは怖いから維持しているだけ。それだけでもエスナは自分に勝てず、優越感を与え続けてもらっていた。

 昔、何も考えず父に追い付きたいと必死だったあの頃。何よりも父が自慢だったあの頃。そしてあまりに自分達とは遠い存在なのに、自分より純粋に父を追い求めるエスナの姿にその情熱が切れてしまった。

 エスナは自分に追いつくことがない、だから父に一番近いのは自分だ。何の疑問も抱かず描いていた心がアルセンの存在によって揺らいだ。

 自分の存在が不安になった。だから父親について行こうとした。エスナの一歩先を行きたいのか、それとも元々抱いていた屈折した父親への感情か、とにかく今のアルカの内面はぐちゃぐちゃだった。
 それでも剣を握る手は揺らがない。
 さりげなくアルカを守る位置にいたアルセンは、内心で葛藤しているアルカを見つめていた。
 もちろんこの中で一番に守りたいのはマインなのだが、今はそれほどの緊急事態ではない。ならばアルセンの中の優先順位はマインの息子であるアルカだ。
 剣の腕に興味はあるので、アルカを妨げる気はないが、誰かに傷を付けさせる気も全くなかった。
 それに戦闘は長引かないだろうとの予測も立っていたのだ。

(2013.9.23)