第一章 第二話 3

 シャージが解散を口にするまでに、アルセンはグリスからもう少し詳しい様子を聞き皆に伝えている。
 犯人はやはり五人。
 グリスがミア達を見つけた時には、既にトーメルク人に捕えられており、少女達の身を守るため自らも進んで捕らえられた。
 犯人達は特に身代金などの要求を話すでもなく、攫う事自体が目的に見え、むしろマイン達が救出に来るのを待ち構えている様でもあったという。
 仲間を殺したのはその中のリーダー的な男であり、マイン達が来る前に廃屋を去って行ったらしい。
 身動きが取れない状況では、詳しい正体まで探る事はグリスには出来なかった。


 それをアルセン経由で伝えはしたものの、結局その酷い顔で妻子の所に戻るのはと、長の家で休んでいるグリスは最後までハンデル達の前に姿を現していない。
 ミア達に危害は加えられていないが、グリスの憔悴ぶりを見ればよほどの被害が及んでいるはずであり、ミアの父親であるハンデルが謝罪に行こうとしたが、これも再びアルセンが止めた。
 三十代の男と十代の少女がいれば、よほどの物好きでない限り少女の方に危害を加えるだろう。
 しかしミア達には何の被害もない、その分全てをグリスが被ったのだ。

 それは酷いものだったのだろう。

 外から見える限りでも暴行の後は痛々しいが、内面的にも参っている。
 殴る蹴るくらいならグリスは耐えた。
 だが人間外の扱いをされたのだ、誰も察する事の出来ない酷い目に合った。
 しかしそれは自ら買って出た事であり、覚悟もしていた。何をされようとも我慢できると思っていた分、それ以上の屈辱に耐えられなかった事がグリスを更に追い詰めている。そして何より自分の弱さが腹立たしい。

 内面に比べれば痛々しいその肉体の傷など軽いものだった。
 それを異氏の一族であるアルセンは誰よりも察する事が出来たのだ。
 だからこそ親友のロウドからもグリスを遠ざけ、彼を守った。
 グリスは十代の少年ではない、今は触れてくれるなと、自分で立ち直れるその時まで構わないでほしいと願ったのだ。
 それを察してくれたアルセンにグリスは頼る形となり、親友であるロウドは不満を募らせる結果となった。
 急に現れた見知らぬ男より、親友の自分を頼ってほしいと思うのは仕方のない事か。

 グリスはロウドを強いと思っていた。自分より強いと思っていた。
 そして親友だからこそ対等でありたい思っていたし、だからこそロウドには頼りたくない。
 自分を心配するロウドはきっと優しくするだろう。それが耐えられない。
 しかしさすがにすべき事を終えたロウドは、いてもたってもいられずグリスの元へと駆け込んだ。


「グリス! グリス、大丈夫か?」
 その痛々しさにロウドは再度激しい怒りを覚える。
「体は大丈夫だ」
 答えたのはアルセンである。ロウドはお前には聞いてないとばかりにアルセンを睨みつけた。
「オレはグリスに聞いているんだ」
「口の中が切れている。気遣って然るべきではないのか?」
 ぐっとロウドが唇を噛む、アルセンの言う通りなのだ。助け出した時と先程、グリスは無理やり口を開いている。傷が開いても伝える事があったからだが、もう今は口を開く必要はない。
「・・・・・・オレが付き添っている、世話をかけた」
 今度はグリスではなくアルセンに言葉を向ける。
「グリスもいい歳だ。付き添いなど要らないだろう。
 俺がここに居たのは他に居る所がないからだ」
 アルセンは理詰めで来る。どうして自分をグリスのそばに寄せさせまいとするのか、ロウドは内心の苛立ちを隠せない。
「オレ・・・・・・は、オレはここに居たい。
 それはお前には関係ないだろう」
 ロウドは引かない。
「いい」
 再び口を開こうとしたアルセンをグリスが制した。
「・・・・・・」
 アルセンはグリスを見つめる。
 視線を合わせないが、その瞳が迷いに揺れていた。
「本当にいいんだな? 後で後悔するくらいなら遠慮するな、追い返す」
「構わない」
 グリスの返答は変わらなかった。まだ何も癒えていない自分よりもロウドを取ったのだ。
 それならばもう何も言うまい、アルセンは親友の心情を察する事の出来ない男に一瞥をくれ、背を向けた。

 


「なあ、グリスのやつ大丈夫なのか?」
 共に長の家を後にしたマインもグリスを心配し、アルセンに声をかける。
「マイン、あまり気にしすぎるな。
 過ぎた同情は彼のプライドを傷つける」
 マインの心配を余所に、アルセンの返答は冷たい。
 だが、こういう時のアルセンの判断は概ね正しかった事を思い出し、アルセンの言うとおりかもしれないと思い直す。
「そうだな」
「マイン・・・・・・」
 何の躊躇いもなく、自分の判断への信頼を込めた返事にアルセン、その変わらない信頼が何よりも嬉しい。
「グリスには悪いが、久々だしな。どうだ?」
 とマインは手で酒を飲む仕草をする。昔はよく二人で飲んだものだ。
 マインの方が酒に強いが、アルセンは長い人生の中、自分の酒量をきっちりと自覚しているので最終的に潰れるのはマインの方が先である。最もみっともないので潰れるまで飲む事は少なかったが。
 酒を飲むのも悪くはない、悪くはないが・・・・・・

「マイン、酒もいいが途中の話があっただろう?」
 ピシッとマインが固まる。
 あれか・・・・・・とマインの顔を冷や汗が流れた。いくらなんでも今朝の事を忘れはしないが、出来ればなかった事にしたい出来事である。
 何か上手い誤魔化し方はないかと考えるが、年の功にも限界があった。
 つい先程までの、アルセンと共に旅をしたあの十年の時に居るかのような、その感覚がパッと霧散する。
 それはとてもとても心地よく、いつまでもその中に居たかった、マインはそう思っていた事に気がつき、ああ今は二十年前とは違うのだと懐かしさを胸に押し込める。
「マイン!」
 思わず考え込んでしまった隙に、マインはがばっと後ろからアルセンに抱きしめられ、というか首をロックされ、そのまま脇道へと引き摺りこまれる。
「お、おい、ちょい待て、アルセン」
 首筋に息を感じたマインは面白いように慌てる。
「マイン、冗談でもからかっているわけでもない、分かるだろう?」
「う・・・・・・あ、ああ」

「マイン、愛してる。二人で旅をしていたあの時からずっと・・・・・・」

 もう今すべき事はない、何かを理由に逃げ出す事が出来ない。
 この声は本気の声だ、マインには分かる。
 正直、自分を三十年近く愛してくれているのは、気分的に悪くない。
 だがマインにとってどうしてもアルセンはそういう対象ではないのだ。アルセンをそういう目で見た事はないし、見ようと思ったこともなかった。

 アルセンは好きだ、本当に大好きだった。それは今でも変わらない。
 でもそれはアルセンが思う感情とは違う、だがある意味違う次元では愛していると言ってもいい。
 ただ恋愛と言う感情で考えると、今でも愛しているのはメーネなのだ。
「俺は、お前とずっと二人でただ旅を続けてもいいと思っていた、ただの男の友人として。
 だがお前はメーネを選んだ、当然の選択だと思う。俺だってマインより先にメーネに会っていたらメーネを愛したかもしれない。
 でも俺が先に出会ったのはお前だった。マイン、お前なんだ!」
 肩が熱い、アルセンの吐き出すような声に体が震える。
 マインはアルセンを振り払う事無く、その言葉をかみ砕く。その内容を理解せねばと、きちんと理解し、誤魔化さず、答えを出さなければと。
「マイン、お前がメーネと共にセーダルで暮らすと聞いた時、身が引き裂かれるかと思った。
 メーネでさえなければ渡さなかった。マイン、俺は・・・・・・お前の幸せを願った」
 あの時、自分に別れも告げずに姿を消したアルセン、既に旅立ったとメーネから聞かされた時、思わず追いかけそうになったあの時の衝動を覚えている。
「あのメーネならお前より先に死ぬことはない、お前を置いていかないだろうと、お前のそばにずっといるだろうと、俺が居たかった位置にずっと居続けるだろうと」

 そう、メーネならずっとそばに居てくれると思った。

 強く逞しく、そして健康的な美しさを持っていた妻。

 溢れんばかりの生気に満ちたその笑顔に、何度救われた事か。

「メーネ・・・・・・」
「マイン?」

 絶対に自分より先に死ぬなんて思わなかった。
 もしその時が来たとしても、その時は二人共に老いた時であり、互いの残りの人生も少ない、そんな終わりだろうと思っていた。
 まさか病に倒れ、やつれていく姿を見続け、そしてまだ自分にメーネと過ごした時と同じくらいの時が残されるとは思ってもいなかった。

「メーネ」

 マインは妻の名前しか呟かない。
 アルセンは腕を緩め抱擁の仕方を変える。

 それは三十年前、少年のマインを優しく抱きしめた腕だった。

「馬鹿だな、お前。
 本当は寂しがり屋のくせに誰にも言えなかったんだろ? ちゃんと泣いたのか?」

 限界だった。
 マインの頬を涙が伝う。
 それはメーネが死んで以来、初めて流した涙だった。

 メーネが死んだ時、寂しがり屋のくせに強がりなマインは涙を流せなかった。弱音を吐けなかった、弱い姿を子供達にさえ見せたくなかった。

 虚勢を張らなければ崩れ去ってしまっていただろう。
 誰にも頼れなかった、誰の前でも泣けなかった。
 弱い自分を隠すため、そんな自分を自ら作り上げていた。

 アルセンがいなかった、全てを受け止めてくれるアルセンがいなかったのだ。
 その全てを理解してくれるアルセンの前で、どうして涙が止められようか?

「・・・・・・メーネ、俺こそが先に死ぬと思っていた。こんな無茶をする俺が生き残って、どうして」

 あの豪快な笑いを二度と聞けない。いつか孫に囲まれ、歳を取ってもその笑いを見せながら更に老いていく、そんな想像が容易に出来る女だった。
 生涯の伴侶だと思ったメーネ、それをこんなに早く失うとは。
 本当にあっけなかったのだ、手から零れ落ちる砂の様なその衰弱を止める事が出来なかった。
 悔しかった、辛かった、助けたいのに何も出来ないもどかしさ。
 マインは一人でそれを背負った。
 息子にも娘にも頼らなかった。
 いや、子供達がいたからこそ背負えたのだ。

 止まる事を知らない涙を流すマイン、昔から全ての感情をさらけ出していた相手だ、今更何を恥じるか。
 アルセンも昔と同じく、何も言わずただ耳を傾ける。
 その打算も何もないアルセンの好意にマインは身を委ね、アルセンのそばでメーネのために涙を流した。
 アルセンの外見もあってか、思い出すメーネは出会った頃の死を予想させない姿で、そしてそれは病に倒れるまで変わらなかった。
 その姿一つ一つに涙が止まらない。


 声をあげて泣く事も、すがって泣く事も、マインには躊躇いはなかった。
 アルセンは何も言わない、何をするでもない、ただただそばに寄りそう。
 亡き妻の為に流す、マインの涙が枯れるまで。

(2010.8.4)