もう一人の出会い

 心地よい潮風が、彼女を失った傷を流してくれる。
 愛した人を見送るのは、何度経験しても辛い。それでも好きと言う感情は抑えが利くものではないのだ。
 荷を担いだ腕を見ると、数十年見ていたとはいえ、それまでの年月に見ていた自分の腕とは全く違う逞しい腕に、まだ多少違和感を覚える。
 この体になる数十年前までは、一般的な肉体しか持っていなかったのだ。

「わたしはね、逞しい人が好きなのよ」

 彼女はそう言っていた。
 彼女を口説き落とす前からずっと言っていたのだ。
 今の体は彼女が望み、そして望み続けたままの体。
 彼女さえ望めば同じように年を取る事も出来たのに。彼女は若い姿のままの自分を望み続けた。
 いつしか似合いの夫婦が年の離れた夫婦になり。
 やがて親子に間違われるようになり、最後には孫にしか見えなくなってしまった。

 自分だけ年老いる事に彼女は恐怖を抱かなかった。
 いつまでも若いままでいてね。
 そう言った。
 あんたが若いままだと、わたしも若いような気になるじゃない。
 最後までそう言っていた。


 そういう彼女こそ、並の男より恵まれた体を持っていたが、それでも女性らしい逞しさを持つ女だった。
 長く生きてくれた。長くそばにいてくれた。

「おいアルセン、こっちも運んでくれ!」
 現実に引き戻された。
 だがここは海の上、またいつでも彼女に思いをはせる時間はあるはずだ。


「お前こっち、持てるか?」
「あぁ、大丈夫だ」
 船員に示された荷物を、苦もなくアルセンは持ち上げる。
「やるなぁ。お前がいるとはかどりそうだ」
 船員はアルセンの二の腕に目をやり満足そうに頷く。アルセンも今の自分なら力仕事が向いているだろうと、この仕事を選んだのだ。
 旅を始めた頃に付き合っていた女性からは剣を教えてもらってもいた。体は変わろうとも、基礎的な部分は変わらない。
「しかし、次の目的地は遠いぜ。いいのか?」
「先日妻を亡くしたんだ。だから、構わない」
「あ~、そういう事か。子供とかいないのか?」
「・・・・・・いない」
 実はいるのだが、とっくに独立している。むしろ今の自分と並べば、自分が息子に見えるだろう。
 説明してもいいのだが、ここに恋人を探しに来たわけではないので黙っておこうかと嘘をつく。
「ま、海にでりゃあ、戻りたくても戻れないしな。覚悟決めるにゃいい仕事だな」
「賃金も魅力的だし、言う事なしだ」
「だろうだろう。オレはゲーンってんだよろしくな」
「よろしく」
 アルセンは一回り小さいゲーンの手を握り返した。


 その夜、出航したばかりだというのに、新人の歓迎会だといって酒宴が開かれた。
 長い航海の旅ではなく、港に寄りながらの航海なので、食糧にも余裕があるのだろう。
 というのが建前なのは、今後嫌と言うほど身に染みるのだが。

 女はいないので、皆手酌か新人に注いで回っている。アルセンは酒に弱くもないが、強くもないので歓迎の酌はジョッキの中身をそれほど減らさない事でしのいでいた。
 数十人の船員に対し、新人は五名。アルセンその中でも一、二位を争う体格の持ち主だったので、酒を注がれる標的になりやすい。だが、初日から酒を逃げるのも今後の事を考えれば円滑な上限関係にひびが入る事になるだろう。
 いっそ潰れて倒れた方が周りに対して心象が良いに違いない。
 仕方がないと覚悟を決めた時、また誰かが酒を注ぎに来た。潰れるのを決めていたので、中身を一気に飲み干しジョッキを差し出す。
「あ」
 差し出してから相手を見て、さすがに驚いた。船長だったのだ。
「どうも、ありがとうございます」
 慌てて礼を言う。相手は口元を緩めただけで次の新人の所へと移った。
「なあ、おれらも注ぎに行った方がいいのか?」
 先に船長の礼を受けていた、同じ新人の男が話しかけてくる。
「なあ、おい。聞いてるのか」
 全く返事をしないアルセンに男が怪訝そうにのぞきこむ。
「え、ああ。そうだな、行った方がいいのかもな」
 声をかけられるまで気づかなかった。
 あの船長から視線を外せなかった事を。


 しかしアルセンはその理由を深く考える事は出来なかった。
 なぜならその後途切れることなく飲まされ続け、そのまま眠ったことすら分からず朝を迎えたからだ。

 目がさめれば間髪なく働かされる。新人以外は皆平然としているのだ。二日酔いだ船酔いなどと言ってはいられない。少なくともアルセンは船酔いとは縁がなさそうだった。
 アルセンは特に金が稼ぎたいという理由で、この船に乗ったわけではなかった。
 たまたま傷心の旅を続けている途中で、船で働いた事がないなと偶然港の街でこの仕事を見つけたのだ。
 せっかくの長い人生、色々な事を経験してみたいと思うし、仕事に手を抜くつもりはなかったが、視線が誰かを探していてた。
 特に二日酔いがひどいわけではないが、今のアルセンには誰を探しているのかに思い至らない。
 昨夜飲まなければ、もう少しその人物に思い至ったのかもしれないが、もう一つ理由があった。

 それは、今までアルセンが心惹かれたのが女性しかいなかったという事だ。


 物心がついてから二百年くらいだろうか。自分の年齢はたぶん二百歳ちょっとなのだろう。
 自分の一族で、生まれて数十年ならともかく、百年単位になればそれほど年を数えている者は少ない。
 十年単位までは数えられるが、一年単位だともう怪しい。

 その数百年、アルセンは女性にしか惹かれなかった。
 こだわっていたつもりはないが、どちらかといえば自分は女性の方により惹かれるのだろうとも思っていた。別に自分の一族ならば相手が女だろうと男だろうと好きになれば何の問題もないのだが。

 だからやっとさまよう視線が止まった時、少し戸惑ったのは間違いない。
 そうか、自分は船長を探していたのだ。
 名前は何だったか? 募集に応じた時に聞いた気もするが覚えていない。
 残っていた酒が抜けていくのが分かる。この気持ちには嫌と言うほど覚えがあるのだ。
 数ヶ月前に妻を亡くしたばかりなのに、不意打ちで訪れた感情に抗うすべはなかった。


 一体どこに惹かれたのか。言葉すら交わしていないのに。
 などと悩むのも、初めて男に惹かれたからだろう。
 別段立場の違いなどにこだわりもないが、この閉鎖空間で一番接触の少ない下っ端というのはさすがになと思う。

 口説かない、という選択肢はアルセンにはなかった。

 波風を立てる気もないので人目に触れる所でするつもりはない。焦らずとも、自分には時間だけはたっぷりとあるのだ。
 まずは自分と言う人間を覚えてもらう所から始めるしかない。
 やりがいがある。
 今までと違い、相手が男なのでこれまでの手は使えないだろう。
 だが、昨日の夜のかすかな笑みを思い浮かべれば、行動せずにはいられなかった。


 船長は出来た人物である。それなりに公平だし、どちらかといえば気さくな方だろう。少し無口だが、特に気になるほどではない。
 中規模の輸送船の船長としてはまずまずの人物だ。

 さてどうやって自分を覚えてもらおうかと思ったが、これは今の体格が幸いした。とにかく他の新人よりは目立つので、目に留まりやすい。あえて船長の目に留まろうとしていれば近くをうろつけばいいのだ。
 ただ単にウロウロするだけなら邪魔だろうが、そこは上手く仕事を使った。

 幾度が港に寄り、酒宴が開かれればそのたびに船長へ酒を注ぎに行く。
 船長が自分を見る目が、ただの新人から少し昇格したのは分かるが、それ以上にならないのもアルセンには分かった。
 ここからは一歩踏み出すしかないだろう。


 ここ数週間で日に焼けたからだろう。この船に乗った時とは明らかに違う肌の色。
 肉体の逞しさもあって、いい人材になるだろう、目をかけてやろう。そう思っていた矢先に相手が深夜に訪ねて来てとんでもない事を言い出した。
「は? 何て言った?」
 船長は身動きすらせずそう言った。訪ねてきたアルセンの爆弾発言が脳裏を駆け廻り、理解を拒む。
「好きだ、オレを女にしてくれ」
「お前、そのナリでそっちだったのか」
 船長は明らかに嫌悪の目でアルセンを見る。下手すればアルセンは自分より体格がいいのだ、女にしてくれと言われてどうしろというのか。
 その様子が面白くて、思わずアルセンは笑いだしそうになったが、そんな事をすれば今までの努力が無駄になってしまう。
「オレは、異氏の一族だ」
「異氏? あ、あぁそうか。なるほどな」
 そのアルセンの言葉で、船長は平常心を取り戻す。男に告白される羽目になるとは想像もつかなったが、異氏の一族なら相手が男だろうと女だろうと関係ない。
「で、俺に惚れたと? 悪いが他をあたってくれ。異氏の一族なら愛されたいと望む奴なんぞごまんといるだろう」
「なぜ? オレはあなたが好きだと言ったんだ」
「俺は自分の船で恋愛事をするつもりはない」
「オレだってそのつもりはなかった。だけど好きになったんだ」
「情熱的だな。異氏の一族とはみんなそんなものなのか?」
「人はみんな船長と同じなのか?」
「・・・・・・」
 船長はしばらく考えこむ。アルセンはその好きを見逃さなかった。
「ハイス」
 船長が怯んだのが分かった。名前で呼ばれるとは思わなかったのだろう。アルセンはがっしりと船長の肩を抑え込む。
「おい、ちょっと待て。どう見ても男を口説いているようには見えないぞ」
「オレは子供の頃を除いて女になった事がない。今まで愛したのは皆女だった」
「それでいきなり、どうして俺なんだ!」
「わかない。だが、止まらない」
 これに船長は落とされた。
「わかった。だがさっきも言った通り、俺は自分の船で恋愛事をするつもりはない」
「・・・・・・」
「今すぐ返事もできない」
「ああ」
「もし少しでも早く返事が欲しいのなら」
「?」
「俺をその気にさせてみろ」
 それでこそオレが惚れた男だと、アルセンは会心の笑みを浮かべた。
 この夜から、二人の男の密かな駆け引きが展開される。


「おい、あの女は誰だ?」
 ある朝、男達は囁き合った。
 昨日まではいなかった美女が颯爽と甲板を歩いているのだ。
 それが陸の上ならそれほど疑問に思いはしないが、ここは船の上なのだ。
 一体どこからやってきたのか?
 しかしその疑問さえなければ、海の上であり男ばかりしかいない為、禁欲を科せられる男達にはむしゃぶりつきたくなるような女だっだ。
 決して華奢ではない、そして妖艶な海の女。
 その女がこちらを振り向いた。
「悪いけど、あたしには手を出しちゃあ駄目よ」
 先制された。
 しかしまたその笑みも男達の欲望を動かす。
「おい、アルセン。何からかってるんだ」
 そこに現れたのは船長だった。
 アルセンと呼ばれた女性は振り向きざま、一目散に船長に駆け寄り、首にしがみ付く。
 しかし周りの男達はその光景よりも、船長の叫んだ名前に反応した。
「ア・・・・・・ルセン?」
 そう、その名前は良く知っている。
 昨日まで共に汗を流し合った男なのだ。
 ガタイの大きな新人の男。
 それが昨日までのアルセンだったはずだ。

 しまったな、と船長は反省する。
 アルセンを女にするには早すぎたのだ。


 そうして、陸に着くまで男達は忍耐をすり減らす事になる。

10

 港に着いた時、一番ほっとしたのは同僚であった船員達だろう。アルセンは自分も仕事を手伝うと申し出たのだが、目の毒だからと奥へ追いやられていた。
 積荷を下ろし終えた後、船員達は抑えていた欲を発散するため個々に散っていき、その必要はがない船長は一人船内に止まる。
 そしてその腕にアルセンは自らの腕をからめた。船の上では中々それすら出来なかったのだ。
 次の出港までは五日間。この期間アルセンは船長を離すまいと決めていた。
「ね、もう今日は仕事ないんでしょ」
「ああ。まあ船で泊まり込みだがな」
「ならあたしも泊まり込み。・・・・・・みんな船を下りてるよね?」
「そうだな」
「ふふ、じゃあ・・・・・・」
 アルセンは船長の耳に唇を寄せる。二人きりだねと。

 本当に五日間、船長はアルセンのそばにいた。最後の夜、その船長のそばでアルセンはある提案をする。
「もう一度あたしを男にしない?」
「は?」
「だって、今の姿じゃあ船の上じゃ厄介者でしょう」
「まあ厄介者と言うか、気が散ると言うか・・・・・・」
「だからさ、もう一回前の姿を思い浮かべて」
 そう言ってアルセンは船長の首に手を回す。
「何だ、もう一回乗り込むつもりか」
「一緒にいたい」
「それはありがたいがな」
「ん?」
「お前は陸で待ってろ」
「・・・・・・なんで?」
「俺は、もうお前を女としてしか見れん」
 まだ反論しようとしたアルセンをその口で封じる。
「待っていろ」
 アルセンは船長の意思が揺らがない事が分かり、しぶしぶ頷く。本音はあくまで付いていきたいのだが。
「分かった、待ってる。待ってるからハイス、早く帰ってきて」
「ああ」

 それからいく度目かの航海から戻って来た時、ハイスは幾人かの部下と片目を失っていた。

 アルセンは半狂乱になって泣き叫んだ。自分もかなり無茶をする方なのだが、相手に自分以上の無茶をされた事はなかったのだ。女の身になって始めて分かる待つだけしかなかった辛さ。どちらかと言うと思考的に男性に偏っているアルセンは男の姿だったらそばにいられたのにと、激しく後悔した。知らない所で愛する者が死んでしまうかもしれない恐怖。勿論先に相手が死ぬ事は分かっていても。

 そしてアルセンは同時に動揺した。女の体とは何と涙がよく流れるのか。もどかしかった。外見だけではなく、もちろん内面も女性となっていたがそれでも男でいた時間の長さはアルセンの内に多大な影響を及ぼしていた。


-完-

ずっと気になってた女アルセンの話です。拍手と、今は下げてしまった旧携帯サイトのリクエストでは書かなかった前半部分をつけたしました。
実は船長の名前を付けていたのをすっかり忘れてたので、名前が変わってます。
ちなみに「もう一人」とはアルセンの中の女の部分の事です。分かりにくくてすみません。
 更にリクエストはもう少し続きがあるのですが、ここまでで一つの話で完結しているかなと思ったので、ここで切りました。
続きはおまけ的な感じの話だと思ってください。
↓↓↓では、リクエストで切った部分です。

「・・・・・・で、それを俺に聞かせた理由は何だ?」
 酒の肴に親友の昔話を聞かされていたマインはコメントのしづらさに顔を顰める。
「まあそれもあって、男を好きになるのは結構覚悟がいる」
「・・・・・・」
 女になる事などあるはずがないマインには返事のしようもない。
「覚悟がいるんだぞ?」
 好きになるという気持ちは止められない。それは異氏の一族だから人並以上だろう。アルセンはマインを始めて見た時、好きだと言う衝動と共に同時に苦しみも覚えていた。
 相手が男の度、また女の辛さを味わわなければいけないのかと。
 女になりたいという気持ちは絶えず失われずにアルセンの中にあるが、男のままでマインのそばにいられるということに正直安堵も覚えていた。
(2012.5.17)